八つ墓村のモチーフになった津山三十人殺しとは

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1938年、場所は岡山県の山奥、加茂で事件は起こった。この事件はあまりに凄惨で猟奇的なものであったため、現在でも語り継がれている。事件ののち、津山市に編入されたことから津山事件という呼び名で世に広く語り継がれている。そして大量殺人事件を扱ったミステリー作家の横溝正史の代表作「八つ墓村」のモデルにもなったのである。

この殺人事件では人口111人の小さな集落でわずか2時間足らずで30人の村人を殺害し、3人に重軽傷を負わせた。日本犯罪史上、前代未聞の連続殺人となってしまった。

それではまずは犯人の都井睦雄という人物について簡単に説明しておこう。

都井睦雄は1917年に生まれた。幼少期に肺結核で両親を亡くし、祖母が後見人となり面倒を見ていた。その後、尋常高等小学校に入学した。小学校での成績が優秀だったという。その後、農業をしながら実業補習学校に入学したが、あまり学業には力は注がなかったという。その頃から近隣の女性たちと夜這いという形で関係性を持つようになっていく。

そしてこの事件を起こした直接の原因とも言える病気を発症してしまったのである。病名は結核で、くしくも都井の両親の命を奪った病と同じものが都井に襲い掛かった。結核は当時不治の病であった。そのため、1937年の徴兵検査で不合格となってしまった。また、病気のためこれまで夜這いによって関係を持った女性からも次第に避けられるようになっていった。

このころから都井はやけになったのか異常な性欲に走るようになったという。若い女性はもちろん人妻にも関係を迫ったという。当然女性たちからは拒絶されたが、都井はそれらの女性に対して憎しみを抱くようになった。都井の異常な行動は村中に知れ渡り、村での立場はなくなっていった。

都井は武器を集めるようになった。一旦は警察に没収されたようだが、その後も武器集めをつづけた。どうやら犯行は入念に計画されたもので、都井が特に憎しみを持っていた女性2人が嫁いだ先から帰省していた時を狙っていたそうだ。

1938年5月21日の深夜、惨劇が幕を開けた。そして深夜1時40分頃、あの有名で、後世に伝えられることとなった格好で犯行を開始した。その恰好とは頭にはタオルを巻き、そのタオルに懐中電灯を2本差し込み、腰には日本刀を差し、そして手には猟銃を持っていた。完全なる武装であった。この格好からも、いかに都井が精力を捧げてこの犯行に及んだのかがわかる。

まず都井は自分の祖母を殺害した。犯行後、祖母はこの村では生きていけないだろうという都井の判断だったようだ。その後、次々と村人を殺害していった。しかし、憎しみを持ち、今回標的としていた女性を取り逃がすなど、犯行は思い通りにはいかなかったようだ。しかし村の家を次々と襲撃していき、計30人を殺害することとなった。村はまさに血の海と化したのだ。犯行後すぐに都井は自分に猟銃の引き金を引き自害していた。この事件では犯人が自殺していること、あまりにも多くの村人が殺されたことから、目撃証言は多くなく謎の部分が多い。しかし都井とは接点のなかった人も多く殺され、身勝手な犯行であることには違いない。

また動機としては犯行の引き金となったのは結核という病気によって自暴自棄になっていたことがあるだろう。また、農村独特の閉鎖的な環境との関係性も考えられる。実際都井は村八分にされていたようである。それにしても村人を30人も次から次と殺していることから、都井の人格的な異常性というものがあったものと考えるのが自然なのかもしれない。

岡山県津山市加茂貝尾集落には津山事件で殺害された人々のお墓が立ち並んでいるという。現在の貝尾集落の人口は37人と過疎化が進み、事件当時の111人から大きく減少した。また、事件当時から貝尾に居住している人は1人もいないという。一世紀近く前深い悲しみに覆われた集落は現在、他の山奥の過疎地と同じような運命を辿っている。

参考サイト ➡ http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/kaiki2/110tsuyama33nin.htm

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