遊郭跡を求めて-滋賀・草津-

今回は遊郭跡を求めて草津へ向かった。関西圏以外の人は草津と聞くと群馬県の温泉を思い浮かべる方が多いのでは。ただ、滋賀県草津市にも草津温泉が実はあって、つい最近までは営業してたんですけどね。それはともかく現地へ向かうことにした。

草津駅を降りると、いかにも大都市のベッドタウンらしい風景が広がっている。滋賀県民御用達の平和堂に近鉄百貨店、それにタワーマンションが出迎えてくれる。

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遊郭跡があるのは草津駅から南へ10分ほど歩いたところにあるそうだ。ということで商店街を通り抜けて南へ向かう。

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それにしても人通りが多い。さすがは滋賀一番の都会と言われる草津駅前だけある。なので人通りが途切れたときを狙って撮影しなければならない。

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商店街を抜けるとトンネルのようなものが見えてきた。これが草津川のトンネルである。川のトンネルと聞いて疑問に思われる方も多いだろうが、草津川はいわゆる天井川で、川床が周辺の土地よりも高くなっている。

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トンネルの中には旧街道の様子が描かれていた。中山道と東海道が分かれる草津宿はこの近くにあり、トンネル内はは中山道にあたる。

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さてトンネルを抜けて右側に、草津宿の本陣が見えてきた。なかなか立派な門構えである。

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この辺で西側に曲がっていくと、路地のような小さな通りに出る。それにしても宿場町というだけあってなかなか落ち着いた街並みが広がっている。

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ただすぐ向こうにはタワーマンションや大規模マンションが立ち並ぶ街があって時代の移り変わりを感じさせてくれる。さて、いよいよ遊郭跡さがしの始まりだ。ここはハッキリと遊郭と分かるような建物は現存していないらしい。ただ確実に遊郭があったということはハッキリした事実である。

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しばらく歩くと向かって左手に料亭が見えてきた。「双葉館魚寅楼」という名前の料亭である。

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下の朱色の建物も料亭の建物のようだ。最初見たときこれが遊郭跡なのかと思ったのだがどうやら違うよう。ただ、料亭と言えば昔売春も行われていたというイメージもあり、ここもそうなのかもしれない。いや、お店に失礼なので止めておきましょう。

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さて、ここが遊郭跡ではないとするならばどこが遊郭跡なのか・・・。しばらく周りを散策することにした。しかし、こういう古い街で建物を物色するようにじろじろ見てカメラをぶら下げていると、不審者を見るような目で住民に見られてしまうのですね。

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それでは遊郭跡候補を紹介していきましょう。どうなのか普通の建物にも見えるし遊郭跡にも見える。

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こうなると木造の建物全部が遊郭跡に見えてくる。

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この建物は人が住んでいなそうである。なかなかパンチのある建物である。これが昔遊郭で建物内に遊女がいて接待していた、という状況も想像できなくもない。が、あくまで予想である。もしただの住宅だったとしたら住民の方に失礼になるかもしれない。少なくとも喜ぶ人はいないだろう。

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さて、それらしきものを見つけて収穫した気になって帰路に着いたのだが、のちのち他のサイトなどで調べてみたら、写真撮影した場所は遊郭街ではなかったようだ。

もっと下調べをしていかなければならないと反省をしております。

とりあえず、記録として残っている事柄だけ記させていただくと、昭和初期に発行された『全国遊郭案内』には貸座敷10軒に娼妓30名、また同時期に発行された『日本全国遊廓一覧』には貸座敷12軒に娼妓23名とあります。そして、東新地と呼ばれていたようです。

http://blog.goo.ne.jp/erotomania_2006/e/481898a4ee3c7476b036209e470cee5eより引用

このサイトによると今の国道一号線の近くに遊郭跡が残っているとのこと。

今回取材で行った場所は関係なかったようです。参考サイト➡http://blog.goo.ne.jp/erotomania_2006/e/481898a4ee3c7476b036209e470cee5e

最後に遊郭についておさらいしておきましょう。

遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。成立は安土桃山時代にさかのぼる。別称として、(くるわ)傾城町(けいせいまち)ともいう。広義には、芸妓を含んだ花街(はなまち、かがい)や、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)など私娼街も含めた通称である。

「廓」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味する語。一区画にまとめられたのは、治安を守り風紀を統制することが目的だった。近代の遊郭は必ずしも大きな物理的障壁で囲まれていたわけではなく、目印程度の境界であることもあった。

その他、江戸時代に公許の遊廓以外で遊女の集まる場所に宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)(飯盛女を参照)や門前町などの岡場所(おかばしょ)があった。

明治期においては、1900年に娼妓の居住地と貸座敷(遊女屋)の営業地が同一地区に指定され、この指定された公娼街を俗に遊郭と呼んだ[1]

wikipediaより引用

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