大阪のドヤ街・釜ヶ崎形成の歴史を振り返る

日本を代表するドヤ街、大阪の釜ヶ崎。私は日本の三大ドヤ街、すなわち東京の山谷、横浜の寿町、大阪釜ヶ崎をすべて訪問したんですが、やはり釜ヶ崎の衝撃というものは特別なものがありました。

山谷や寿町も地区内に入り込んだ途端、他とは違う独特な雰囲気を感じたんですが、釜ヶ崎は別格なものでした。これは言葉では言い表すことが難しいんで、実際に行かれてみることをお勧めします。

今回はそんな釜ヶ崎が歩んできた歴史を振り返っておこうと思います。

一般的には釜ヶ崎という名称よりも、行政が名付けたあいりん地区の方が一般的かも知れません。釜ヶ崎という地名は大正時代まで実際にあった地名であり、地元の人は釜ヶ崎と呼んでいます。

釜ヶ崎のスラム誕生

そもそも、いつどのようにして釜ヶ崎にスラムが形成されたんでしょうか。実は釜ヶ崎にスラムができるまえ、長町(現在のでんでんタウンの辺り)に大規模なスラムがありました。

というのも江戸時代、長町は宿場町として栄えていたのですが、同時に貧困層が多く寄り付く街でもありました。飢えに苦しむ人も多く窃盗などの犯罪行為も蔓延っていたそうです。そのため、そのような人たちを救済するための小屋が建てられることになりました。

長町で苦しむ貧困者や病人に加えて、他の町からもそうした人が住み着くようになりました。こうして長町は貧困者などの浮浪者が行き着く街となり、スラムと化したのです。最盛期の1800年代後半には2000もの木賃宿が存在し、およそ7000人もの人が暮らしていたんです。

これだけ多くの放浪者が住んでいた長町スラムですが、コレラが流行したり、衛生面での問題点が指摘されていました。こうしたことから1987年には木賃宿が大阪市内で営業禁止になるなり、1903年に内国勧業博覧会が開催されることにがきっかけで、長町にあった木造宿は一掃され、スラムは消滅することになりました。

そして長町スラムにいた貧困層が行き着いた先、それが当時の今宮村の釜ヶ崎だったわけです。

暴動の歴史

釜ヶ崎の歴史は暴動の歴史でもあります。釜ヶ崎ではスラム誕生から頻繁に暴動が起こっていました。特に大規模なものは「西成暴動」や「釜ヶ崎暴動」と呼ばれ、1961年の第一次暴動から、2008年の第24次暴動まで、数えること24回にもわたって暴動が繰り返されていたのです。

まさか2000年代に平和で安全な国・日本で暴動が起こっていたとは誰も思っていないでしょう。そして一部関西ローカルの番組を除いて、マスごみさんはこれを報じていませんでした。暴力団や警察など日本の闇の部分が絡んでいるので、なかなか報道しづらい状況にあったのかも知れません。

24回も暴動が起こったていたわけですが、一貫していることは、暴動の原因は労働者たちの鬱憤がたまっていたということです。

ドヤ街(寄せ場)では、労働者たちが日雇いの仕事を探して、雇用されることになるのですが、その際に手配師(今でいう派遣会社みたいなイメージ)がピンハネが行われていました。さらにその手配師たちを束ねる暴力団にもピンハネをされていたわけですから、常に不満を抱えた状態で生活していたことが予想できます。

その不満は時として警察官にも向かいます。例えば1990年の22次暴動では警察が暴力団から賄賂を受け取っていたことをきっかけに大規模な暴動に進展しました。その様子は海外でも報じられるなど、ニシナリの名を世界に知らしめることになったのです。むろん、賄賂を受け取っていた警察が悪いのですが、これをきっかけに暴動が発生するというのは日本でも釜ヶ崎だけではないでしょうか。

おわりに

貧困は視野を狭くさせます。人々の余裕を奪っていきます。ちょっとしたいざこざでも時として不満が爆発するのです。この釜ヶ崎の歴史を振り返ることで、日本の闇の部分、そして貧困という永遠に無くなることのない社会問題を少しでも考えるきっかけになるかも知れません。

現在釜ヶ崎では高齢化や不況の煽りを受けて、日雇い求人数が減少しています。求人を斡旋しているあいりん総合センターは閑古鳥が鳴いているかのように静まりかえっています。

そして釜ヶ崎は「日雇い労働者の街」から「福祉のまち」へと次第に役割を変化させています。

就労あっせんを行っている同センターでは1995年度、1日平均3740人の日雇い契約が成立したが、2014年度は4分の1の同971人まで減った。男性は「『仕事をもっと寄こせ』と詰め寄られた時代が懐かしいわ」とつぶやいた。

読売オンライン 2016.5.22

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