みなさんは「大大阪」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
実は大正後期から昭和初期にかけて大阪がこう呼ばれていたんです。
当時の大阪の経済は、首都の東京と並ぶか、それを凌ぐ勢いがありました。
よく関ヶ原の戦いに負けて首都が東京になったために日本の中心は上方から江戸に移ったと言われてますが、政治はともかく文化や経済は戦後の60年代くらいまでは関西と関東と拮抗してたんですけどね。
そして西日本の若者は大阪に憧れ、上京ならぬ上阪志向があったんです。
いまや東京の糞マスコミ様のせいで、すっかり大阪はお笑いとケチといったイメージが植えつけられましたが。
東京のテレビ局が大阪の街を映すときはなぜか道頓堀や通天閣です。大阪らしい場所ではありますが、梅田や中之島などの上品なエリアのシーンを見たことありません。すばらしい徹底ぶりですよ、キー局の皆さん。一方で東京では新宿の超高層ビルから港区のオシャレスポットまで、これぞ大都会だと言わんばかりに映しまくっています。これを東京ジャイアニズムと言わずに何と言えばいいのでしょうか。
さて、話を戻しましょう。人口を見ても1925年には大阪市の人口は211万人まで増加し、当時の東京府東京市を上回る人口を誇っていました。
この背景には1923年の関東大震災の影響や、1925年の西成郡、東成郡の大阪市への編入といった出来事がありますが、大阪市が日本で最も人口の多い都市であり、まさに大阪が一番輝いていた時代と言われています。
近世から天下の台所といわれた豊かな経済基盤を武器に、産業、文化、芸術の中心地として栄華を極めた黄金の時代でした。
分かりやすく言えば大阪は”イケてる街”だったわけです。
このころの象徴的な出来事としては
・御堂筋の大規模な拡幅
・大阪天守閣の再建
・市営地下鉄御堂筋線の建設
などが挙げられます。
ところでこの大大阪という言葉は大阪府全体ではなく、おもに大阪市に対して用いられていました。
これに関連した話題として、昨年おおさか維新の会が打ち出した大阪都構想が住民投票によって否決されましたね。みなさんご存知のように、大阪都構想は大阪市を廃止して基礎自治体として5つの区に分割するというものでした。
もちろん大阪市という行政区分を廃止するだけで、新たな行政区分のもと、これまでの大阪が今後も続いていくことになることには変わりません。
しかしながら反対派の政治家や住民は、大阪市が廃止されるということに猛烈に反発しました。それだけ大阪市に対する執着、愛着が強いことが伺えます。
このことから大大阪時代の栄光が今もなお生き長らえていると言えるかも知れません。
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