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耳や鼻が埋められた曰くつきスポット-京都・耳塚-

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耳塚、この言葉からみなさんは何を想像されるだろうか。耳の塚と書いて耳塚だが、実はまさに文字通り耳が埋められた塚なのである。

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場所は京都市東山区。ちょうど豊国神社から垂直に伸びている正面通りを下って100mほどのところに耳塚はある。正面通りを下ると住宅街の中にひっそりと丘のようなものが見えてきた。
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東山区と言えば祇園をはじめ、華やかな場所を思い浮かべる人が多い。しかし祇園がある東山区北部はいかにも京都らしさ全開の街並みが見られるが、五条通りより南のエリアの街並みはいたって普通という場所が多い。もちろん三十三間堂や東福寺などの有名観光スポットもあるが、周囲はごく普通の住宅街である。

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芝で覆われた丘の上には供養塔が建っている。そしてその丘を石と鉄でできた柵が周囲を取り囲む。

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耳塚とはいったい何なのだろうか。耳塚は別名鼻塚とも呼ばれ、戦死者の耳や鼻を弔った塚である。実は全国各地に耳塚(鼻塚)はあるのだが、京都の耳塚が一番有名らしい。

時は戦国時代まで遡る。豊臣秀吉の朝鮮出兵はあまりにも有名であるが、その際慶長の役で討った朝鮮、明国兵の耳や鼻を京都に持ち帰ってここに葬ったという。死体から耳や鼻を切り取って持って帰り、この地に埋めたということになる。もちろん当時の耳や鼻なんて跡形もなく土に帰ってしまっているのだが。

しかし驚くべきはその数で、なんと2万個になるという。もちろん秀吉は戦功の証として鼻や首を持ち帰ったのである。当時日本では、敵の将校など身分の高い者は首ごと、足軽などの身分の低いものは耳や鼻を持ち帰り戦の勝利を証明するのが一般的だったという。

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次に耳塚のある土地について少し補足しておく。耳塚近くの清水寺周辺には昔、京都の三大風葬地であった鳥辺野があり、現在その辺は大谷本廟の大規模な墓地がある。そして現役の火葬場も周辺にあり、まさにあの世が近くにある地と言っても言い過ぎではないだろう。なぜ平安時代からこの場所で死に関連することが盛んに行われてきたかと言えば、平安京の東の外れに位置しているからに他ならない。京都の洛中でたまった負のエネルギーが吐き出されたのが、平安京の端っこに位置するこの場所であると言える。耳塚から東山連峰の方へ少し上がっていくと、このような霊気、負に満ちたエリアが存在するのである。

最後に耳塚は心霊スポットとしてはメジャーとは言えない。また住宅街の中にあることからあまり肝試しにも向かなそうである。しかし、かつて戦死者の耳、鼻が埋められている場所であること、さらに周辺に平安時代からのいわくつきの場所が存在する、という事実から今後なんらかの心霊現象が起きて噂が広がっていく可能性は十分にありそうだ。

 

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コメント

  1. 通行人 より:

    まずは、中世~近世初頭までの日本の歴史について。
    12世紀後半の1180年代から1192年までの間に武家政権 鎌倉幕府が確立。
    1185年には、将軍 源頼朝の代官である守護が諸国に置かれる。
    (以後、守護は地方行政官、地方軍・警察の司令官として機能)

    13世紀後半、二度に亘りモンゴル・高麗軍が日本に来襲。
    (1274年 文永の役 1281年 弘安の役)
    この戦いにより、鎌倉幕府は衰退し、1333年に滅亡。

    鎌倉幕府の滅亡により、中央政権が事実上不在の戦乱の時代が約60年間続く。(1333~1392年 南北朝時代)
    この戦乱の間、幕府の代官として置かれていた守護は自立性を強め、管轄区域を私領化して守護大名に成長。
    室町幕府の将軍 足利義満によって戦乱は終息したが、依然として守護大名は各地方に残り、また、有力守護大名は幕府の要職も兼務したため、室町幕府の支配体制は不安定性をはらんだものとなる。

    この”不安定性”が後の戦国時代を招くこととなり、日本は再び戦乱の時代となる。(1467~1568年)
    身分制は崩壊し、実力が全ての時代となる。
    農民出身の豊臣秀吉が天下人となったのは、このような時代背景による。

    文禄・慶長の役が文永・弘安の役の反作用であることは明らか。
    朝鮮人の霊が祟るような話が出てくるなど、お門違いもいいとこだ。
    祟るならモンゴルの尻馬に乗って日本を攻めた先祖達に祟れ。

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  3. […] ・耳塚   (京都) […]

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