場所は京都市山科区。洛中と山科を結ぶ三条通り沿いにひっそりと佇む石碑がある。
その昔、東山区の蹴上や山科区の日ノ岡のあたりには粟田口処刑場があった。
平安時代から江戸時代にかけて1万5000人もの人々がこの地で亡くなったのである。また、あの有名な明智光秀もこの処刑場で首を跳ねられたという。
今回は京都市営地下鉄の蹴上駅から現地に向かう。この処刑場跡はちょうど蹴上駅と御陵駅の中間にあり、徒歩15分ほどで到着する。この辺りは峠のようになっている。写真は処刑場の向かいの歩道から山科方面を写したものである。
昔、ここに京阪電車の路面電車が走っていた。現在では路面電車が廃止され、地下鉄が道の下を通っている。数年前に道路の拡幅工事が行われた際には神主などを呼んで石碑の前で大々的にお祓いをしたそうである。
下の写真に小さく写っている石碑がそれである。気をつけないと見落としてしまいそうである。さらに6月に訪れたので草が生い茂っていて余計に気づきづらくなっている。
横断歩道を渡り入口のところに行く。なぜこんなところに軽自動車が止めてあるのだろうか。車間距離が詰まりすぎていて縦列駐車したとは思えない。
この車の上にちょっとした丘のようなものがあり、そこに石碑がひっそりと佇んでいる。
さて、生い茂る草をかき分けて丘の上に登る。そうすると草村の向こうにひょっこりと石碑が顔を現した。
この地で処刑された人たちを弔っているようだ。石碑は2つある。両方ともコップが置かれており、石も綺麗な状態を保っている。
粟田口処刑場の詳細は次のようである。
粟田口の刑場は明治維新後に廃され、明治5年(1872年)に舎密局の申請で京都府によって同地に粟田口解剖場が置かれた。記録によると、解剖場は四面がガラス張りの建物で、翌年に刑死した4名の解剖がおこなわれて多くの医師がその様子を参観したとされる。しかしその年には解剖場は病院に移転となり、この土地は忌み地として残されたのである。現在刑場跡に残されている2つの石碑は、この解剖場時代の供養塔である。
日本伝承大鑑より引用
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「萬霊供養塔」「南阿無陀仏」と書かれているようだ。
心霊現象としては首のない霊が現れるささやく声が聞こえるなどあるようだ。確かに森が近くに迫っており、不気味な雰囲気を漂わせているものの、特別恐怖を感じることはなかった。平安時代や江戸時代といったそんなに昔の幽霊が現れるのかという疑問はあるが、大変ないわくのあるところである。そのような歴史的ないわくがここを心霊スポットにさせたのだろう。
参考・引用サイト 日本伝承大鑑
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