本日は明智光秀の埋蔵金伝説を追う。明智光秀といえば皆さんご存知のように戦国時代から安土桃山時代にかけて信長の側近として活躍した歴史上重要な人物である。あの本能寺の変を引き起こした張本人であり、その後山崎の戦いで敗れた。そして秀吉は敗走中に、京都の小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区の醍醐)で最後を終えたと伝えられている。
しかし、実は秀吉は山崎の戦いの後、死ぬことなく生き延びて天海という僧侶になったという説があるのだ。ここで天海について説明しておくと、本名は南光坊天海といい、幕僚として徳川家康に務めた僧侶である。しかしながらこの人物の経歴には多くの謎があり、光秀=天海なのではないかという噂がまことしやかにされている。
この話はのちにするとして、まず場所の説明をしておく。坂本城址があるのは滋賀県大津市の坂本である。坂本は延暦寺の門前町として古くから栄えた街で、現在でも宿坊が多く残され、観光地として知られる。
この日はJR湖西線の比叡山坂本駅から現地に向かう。比叡山坂本駅の周辺は京都、大阪のベッドタウンとして住宅街がひろがっているエリアである。しかしその駅名のとおり、住宅街の坂を上がっていくとそこには延暦寺のある比叡山がそびえ立つ。
駅からJR湖西線の高架沿いを南に歩いていく。高架下ということもあり殺風景な雰囲気である。
さらに南へ歩いたのち、琵琶湖のある東方向へ足を進めていくと、坂本城址の石碑が建てられていた。
さらに東へ進み、国道161号線を超えると明智光秀像がある緑地公園がみえてきた。
坂本城は信長が光秀に命じて建設された。この城の建設目的は、当時、一大勢力を誇っていた延暦寺を監視するためと言われている。
このような石碑もあった。
そして石碑の横には明智光秀の石像があった。
光秀の像がある公園は坂本城の城郭からは数10メートル離れたところにある。下の地図で見ると①番がこの緑地公園でその北に本丸、二ノ丸、三ノ丸の城壁が構えられていたようだ。
大津港マリーナより引用
さて、話を埋蔵金伝説に戻そう。
明智光秀(天海)は「護法救民の宝」と呼ばれる埋蔵金をどこかに隠したといわれている。明智光秀(天海)は厳格な仏教信者であったことからこの名がつけられたと言われている。その候補地として、坂本城の周辺、あるいは琵琶湖の湖底があげられている。また、他の候補地として、京都府亀岡市の亀山城址や、京北町の慈眼寺、菩提寺があり、実際に埋蔵金発掘の調査も行われてきた。しかし、この坂本城址はやや候補地としては影が薄いようで、それほど発掘調査は行われていないようである。もちろん、宅地化の際に坂本城の調査のために発掘調査は行われたようだが、まだ周辺地域や湖岸沿いは調査の余地が残っていそうである。
みなさんも、金属探知機を持って埋蔵金探しの旅に出かけてみてはいかかだろうか。
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