洞村はかつて奈良県にあった被差別部落である。神武天皇陵の拡張の際に、移転することになったのだが、今でも山中には遺構があるということで、奈良を訪れたときに探してみた。
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洞村(ほらむら)とは
まずは洞村の基本情報を紹介しておこう。
洞戸の場所は?
奈良県橿原市、畝傍山の山麓にある。まずは奈良県橿原市にある畝傍山の場所を確かめておこう。
畝傍山があるのは橿原市中心よりはやや南。畝傍山南側の山麓には橿原神宮があるというロケーションである。
さて、もう少し地図を拡大してみよう。次は畝傍山のどの辺に洞村があったのか調べてみた。
この村は、神武陵の南手、ちょうど同陵を見下ろす場所に位置する、嘉永7年(1854年)の時点でおよそ120戸、大正9年(1920年)の時点でおよそ200戸を数えた、同陵墓の守戸―いわゆる墓守の集落と伝わる村で、被差別部落であった。
Wikipediaの文章から推測すると、おそらく洞村があったのはマップ上、赤く囲んだ箇所であろう。
洞村が存在したのはいつまで?
洞村が存在したのは大正時代まで。
大正時代に入ると、神武陵天皇陵の整備が急速に進み、その一環として天皇陵の拡張が行われることとなった。
そして、その影響から大正6年(1917年)、洞村は近くの平野部に移転することになったのである。
洞村の遺構を求めて
ネット界隈を検索していると、移転後も洞村は完全に取り壊されることはなく、人が住まなくなった今も遺構が残されているとの情報を手に入れた。
もしかしたら今回お目にかかれるのではとの期待を胸に、奈良県入りした。
まずやってきたのはJR畝傍駅。橿原市の中心地として賑わいを見せる近鉄大和八木駅から程近い場所にあるが、こちらは完全にローカル線といった感じである。
本当はJR畝傍駅から近鉄橿原線に乗り換えた方が早いのだが、せっかくなので神武天皇陵まで歩くことにした。
洞村の移転先を脇に歩いていく
洞村は移転時の大正時代には200戸を超えるほど大規模な部落であったというから、移転先はいくつかに別れていたという。
そのうちの一つがこちらの四条町と呼ばれる区画。いわゆるニコイチと呼ばれるような住宅街が広がっていることが遠目から確認することができる。
さらに四条町に隣接する大久保町には、おおくぼまちづくり館という地域歴史博物館がある。
洞村の歴史を学べるおおくぼまちづくり館
移転前の洞村の模型が当時の写真とともに展示されていたり、洞村の主要産業であった下駄表づくりや靴づくりの資料が残されていたりと、洞村の歴史について学ぶことができるようになっている。
★所在地;橿原市大久保町40-59
★交通;近鉄畝傍御陵前駅下車 徒歩5分
★駐車場;有ります(無料4台)
★入場料;大人100円 (18歳未満無料)
★休館日;月曜日
★開館時間;9:00~17:00
★問合せ;0744-22-4747
おおくぼまちづくり館は、洞村にあった旧丸谷家住宅が移転された際の建物が使用されている。
残念ながらこのときは年末年始ということで、開館していた。興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか(私もいつか絶対行く)。
神武天皇陵参道の脇道から畝傍山へ・・・
住宅街を抜けると、大和八木駅~橿原神宮前駅まで南北に続く大通りに出る。年始とあって初詣客で大渋滞であった。
神武天皇陵にはそれほど参拝者は居らず、厳かな雰囲気が漂っていた。
神武天皇陵の正面から南へ延びる参道を歩いて数分、右手に脇道が見えてきた。
青い矢印 天皇陵⇒参道⇒参道の脇道のルート
この脇道から畝傍山へ入っていけば、洞部落のあった場所へ辿り着くことができるはずである。
山へ入っていこうと思ったが、何と宮内庁による立ち入り禁止の看板があった。
これは無理に入るわけにはいかない。宮内庁だし見つかったらヤバそうだ。
参道の脇道以外で、畝傍山へ入っていける道はないか探してみたものの、フェンスで囲われていて実現できなかった。
洞村の遺構は存在しているのか、しているとしたらこの目で確かめることはできるのだろうか。
今後の課題としたい。
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